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華岡青洲の生涯

華岡青洲

華岡青洲肖像画 【朧渓(りゅうけい)画】 文政9年(1826年)に描かれた青洲

華岡青洲(はなおかせいしゅう)は麻酔薬「通仙散(つうせんさん)」を発明し、世界で初めての全身麻酔による乳ガン摘出手術に成功した外科医です。青洲は宝暦10年(1760年)旧暦10月23日、華岡直道・於継の間に生まれました。青洲の父「直道(なおみち)」も医師で、青洲は幼い頃から病や怪我に苦しむ人々を見て育ち、自分も医者になって人の命を救いたいとの思いを抱きながら成長しました。

青洲は天明2年(1782年)23歳のとき、医学を学ぶため京都へ遊学。吉益南涯のもとで古医方を、大和見立のもとで外科を学びました。このころ青洲は昔、中国の華佗(かだ)という医者が麻酔薬を使って手術を行い、多くの人々の命を救ったという話を耳にします。青洲は自分も麻酔薬を作り、これまで誰にも治すことのできなかった病気を治し、病に苦しむ人々を救おうとの気持ちを強く持つようになっていきました。「自分は日本の華佗になるのだ」 大いなる目標を掲げた青洲は、3年間の猛勉強の末、故郷平山に帰ってきました。帰郷した青洲は、父の跡を継ぎ、患者の治療に取り組むかたわら、新しい治療法の研究や薬草採集、そして麻酔薬の研究に打ち込む日々を送りました。

華岡青洲の医術

麻酔薬の研究をどのように進めたのかを示す詳しい記録は残っていません。青洲はまず動物実験によって薬の効果と安全性を確認し、そのあと人間の体で効果を試したと考えられています。人体実験では母「於継(おつぎ)」と妻「加恵(かえ)」が自分の体を使って麻酔薬を試してほしいと自ら申し出たので、青洲は母と妻に麻酔薬を飲ませ人体実験を行ったと伝えられています。文化元年(1804年)旧暦10月13日、青洲はついに麻酔薬「通仙散(つうせんさん)」を完成し、世界初の全身麻酔下の乳ガン摘出手術に成功しました。華岡青洲の名声は日本全国に轟き、多くの難病患者や、青洲の医術を学びたい医学生が平山を訪れるようになりました。

華岡青洲の門人(弟子)

春林軒(住居兼診療所)

春林軒(住居兼診療所)

青洲は、診療所と医学校、そして自らの住居を兼ねた「春林軒(しゅんりんけん)」を作り、多くの患者の命を救うとともに、門下生に医術を教えました。大坂の中之島にも春林軒の分塾「合水堂(ごうすいどう)」を作り、青洲の弟(四男)華岡鹿城(ろくじょう)が診察と門人の指導にあたりました。華岡流の医学を学んだ門人の数は、合水堂で学んだ門人の数も合わせると、1861名にのぼり、本間玄調・鎌田玄台など優秀な医師を世に送り出しています。

華岡青洲の晩年

当時、紀州藩主であった徳川治宝は、青洲の実力を高く評価し、享和2年(1802年)青洲に接見し、帯刀を許しました。紀州藩は青洲を侍医として迎えようとしましたが、「公職に就くと一般患者の診療ができなくなる」という理由で一旦は辞退しています。しかし、紀州藩から再度の要請があり、文化10年(1813年)に「小普請医師格( こぶしんいしかく)」として任用されました。公職に就いても一般患者の診療を続けたいという青洲の願いは認められ、小普請医師格になってからも平山で住み続けることを許されました。文政2年(1819年)には「小普請御医師」に昇進しました。小普請御医師になると、本来は和歌山城下へ住居を移さねばならないのですが、青洲は月のうち半分だけ和歌山へ登城し、それ以外の日は名手の平山で一般患者の診療を行うという条件でこの役目を引き受けました。天保4年(1833年)には「奥医師格(おくいしかく)」となっています。

天保6年(1835年)旧暦10月2日、華岡青洲は全身麻酔薬の発明という偉業の完成と、多くの人々の命を救うことに捧げた生涯を終えました。76歳でした。

注:年齢は数え年で記載しています
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